「朝鮮人は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼らをあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼らにとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。」。
李承晩は韓国の初代大統領ですが、元々は没落両班の家系出身の人物です。
李承晩の家の近所に、たまたま米国人のプロテスタント系の教会が出来、彼は少年時代にそこで米国人宣教師から英語を学ぶ機会を得ます。
そして、大韓帝国皇帝の高宗が国費で学生を留学させるとなった時に、その中の一人に選ばれます。
その時に李承晩は、アメリカのルーズベルト大統領に会っています。
そして、その場で「韓国への援助を求める請願書」を渡そうとして、断られています。
韓国の国書ではなく、李承晩個人の「請願書」だというから、常識がないバカなのか、型にはまらない凄い人物なのか評価に困りますが、後々の行動をみると前者なのでしょう。
そしてその後は、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学に学び、1910年には、プリンストン大学で政治学博士号を取って卒業しています。
そして、朝鮮に帰ってきた時には日韓併合という現実が待っていました。
翌年、寺内正毅朝鮮総督の暗殺計画に加担し、露見して投獄されています。
翌年出獄した李承晩は、アメリカに亡命し、そこで李氏朝鮮時代を賛美するファンタジーを細々と書き続け、朝鮮独立運動家としての行動を続けています。
その頃朝鮮では、初代皇帝・高宗が逝去して、その葬儀を前に天道教という宗教団体が、33人でソウル市内のバゴダ公園で独立宣言を読むということを計画します。
これに数千人の学生が参加し、デモ行進を行います。
このデモが合計1542回も行われています。
このデモはデモと言う生易しいものではなくて、暴徒です。
警察署や役場を襲撃して、小学校にまで押し寄せて、強姦、虐殺、放火など残虐の限りを尽くします。
小学校で強姦、虐殺です。
(韓国ではこれらすべてが日本人が韓国人に行ったことになっていて、教科書などに載っている)
死傷者は2万人を超える大惨事になります(三・一暴動)。
この「三・一暴動」が、韓国では他のアジアの独立に波及したと考えられ、教科書などにも載っているほどなのはジョーク以外何物でもありません。
ちなみにこの独立運動(?)では、日本人の憲兵6名と警察官2名が虐殺され、多くの犠牲者を出したのにも関わらず、死刑を一人も求刑せず、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役はわずか80人に過ぎませんでした。
この時逮捕された三一暴動の主要リーダーであった李光洙、崔南善、崔麟 朴煕道たちは日本の裁判のあまりの公正さに感激し、やがて強烈な日本ファンになって、その後の言論界をリードしていきます。
韓国では独立運動を日本が妨害してさせなかったと、嘘を教えていますが、1542回もデモが出来たという事実と首謀者への刑の重さなどを考えても事実を見ているとはとても思いません。
そして、この後、日本がアメリカに負けるまで、このような反日デモは起きていません。
日本の統治が優れていて、目に見えて朝鮮が発展していったからです。
その朝鮮に、終戦後再び変化が訪れます。
終戦後、韓国に帰国した李承晩は、韓国の初代大統領に就任しました。
李承晩は、大統領に就任するとすぐに、韓国内で言論の取締を行っています。
すなわち、国内で「日本統治時代のほうがよかった」「いまの政治はおかしい」と発言しただけで、全員その場で逮捕、投獄し、厳しい拷問を加えた挙げ句、殺害してしまったのです。
こうして逮捕された政治犯は、李承晩が大統領に就任した最初の二年間だけで、日本統治36年間の政治犯の総数をはるかに上回るものとなっています。
そして李承晩は、朝鮮戦争がはじまると、自分だけはサッサと前線から逃亡し、その逃亡途中で、武器さえも持たない韓国の一般市民を、北朝鮮のスパイだと一方的に決めつけ、韓国民20万人以上を殺害しています。
ちなみに朝鮮戦争による死傷者は、韓国軍20万人、米軍14万人、その他連合国軍が22万人、北朝鮮軍が29万人、中共軍が45万人で、民間人が韓国側133万人、北朝鮮側が250万人と想像を絶する犠牲者を出しています。
アメリカは、この悲惨な戦争に日本軍を再生させ、参戦させようと、サンフランシスコ講和条約を日本と締結します。
しかし、当時の吉田首相は日本がこの戦争にに加担させられることを防ぐのに成功しています。
そして、アメリカは戦いを希望する韓国李承晩大統領を無視して、北朝鮮と休戦協定を締結しています。
これは、アメリカが日本の参戦を諦めたからです。
アメリカは日本が朝鮮戦争に参加するのを熱望していましたが、李承晩大統領は日本の参戦を拒み、日本と敵対する行動を取ったのが李承晩ラインです。
李承晩は、それに先立ち米政府に要望書を出しています。
内容は、「竹島、波浪島を韓国領とする要求」です。
何とか日本を朝鮮戦争に引き込もうとしていたアメリカは激怒し、「一切認めない」という、外交文書としては異例の厳しい内容の書簡を李承晩に送りつけます。
これが「ラスク書簡」です。
しかし、李承晩は1952年1月8日に、突然、日本との国境を一方的に定めた「李承晩ライン」を取り決めます。
これに一番驚いたのはアメリカです。
朝鮮戦争の真っ最中に、日本の参戦を熱望していたのに、その日本の協力を貰うべき韓国が、いきなり日本にケンカを売ったのです。
正気の沙汰ではありません。
サンフランシスコ講和条約自体の意味が無くなる、大暴挙です。
さらに李承晩は、追い打ちをかけるように1月27日に、「李承晩宣言韓国政府声明」を発表します。
この声明で、李承晩は、李承晩ラインは「国際法において確立された」と一方的に宣言します。
事態を重くみたアメリカは、李承晩に、
「サンフランシスコ講和条約によって竹島は日本領である」
「李承晩の一方的な宣言は、国際法上違法である」と韓国政府に伝達しています。
これに対して李承晩は、日本人漁船の拿捕と竹島の軍事占領という、実力行使にでます。
とんでもない話で、これによって日本人3,939人の拉致、抑留、拷問などの不法行為と44人の死者が出ています。
酷い暴行の跡が残っています。
この暴挙がなければ、朝鮮半島は北と南に別れていなかった可能性は高いです。
この暴挙によって、アメリカは朝鮮半島への執着を諦め、韓国を無視して北朝鮮と休戦協定を結んだのです。
これに腹を立てた李承晩は、韓国内に収容した敵軍の捕虜を国内で何の脈絡もなく全員釈放して放逐するという暴挙を重ねます。
この放逐された捕虜が韓国各地で事件を起こし、韓国国民に大惨事を招いたりもしています。
そして、1960年、その李承晩大統領にアメリカは大統領を辞任しなければ、米国は対韓経済援助を中止すると宣告しています。
これに対して、李承晩は「行政責任者の地位は去り、元首の地位だけにとどまる」と発言して、韓国国民の怒りを買っています。
(銅像などを引き倒されたりしている)
この「李承晩ライン」は、1965年の「日韓基本条約」まで続いています。
しかし、竹島については、当時の日韓両国において「争いの余地のない日本の領土」という認識のもとで、特段の取り決めがなされませんでした。
このため、いまだに竹島が領有をめぐっての日韓の火種となって残っています。
ちなみに、李承晩は、李氏朝鮮王朝の正当な血を引く李氏朝鮮の皇族の韓国入国を拒否しています。
李氏朝鮮はユートピアで、それを日本の統治が崩したというファンタジーを広めていたのにも関わらずです。
結局、李垠殿下は、日本で生涯を質素な公営住宅で過ごされ、亡くなられたときも公営住宅内の集会所でひっそりとした葬儀がとりおこなわれています。
このとき韓国政府からの出席者は一人もいませんでした。
日本からは、皇室が出席しています。
韓国の日本への反日は李承晩によって始まり、そして朝鮮戦争も李承晩が韓国の勝利を遠ざけ、竹島の問題も李承晩によって引き起こされ、もっと言えば、日本にいる在日の問題も李承晩によって引き起こされています。
在日朝鮮人は、そのほぼすべてが朝鮮戦争中に、日本に大挙して不法入国してきた人達であることが分かっています。
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