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日韓併合の真実

ヘンドリック・ハメル(オランダ東インド会社社員)

「朝鮮人は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼らをあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼らにとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。」。

日韓併合前の朝鮮迎恩門とは


迎恩門
日韓併合前の朝鮮、つまり李氏朝鮮時代の末期は一体どんな国だったのか、外国の人の著書なども参考に色々まとめたページです。

韓国が日韓併合時代のことを悪くいう背景には、もともと朝鮮はきらびやかな王朝があって、日本がそれを壊したという幻想もあります。

他国の過去をわざわざ貶すのは、本意ではないのですが、韓国などがそれを元に世界で反日活動を繰り返すのであれば、話は別です。

どれくらい酷い状態で、国としては成り立っていけなかったということを明らかにしていきたいと思います。

韓国は、その事実をイメージでごまかそうと必死です。

韓国の歴史ものを描いた「宮廷女官チャングムの誓い」というドラマがあります。

韓国はもちろん、日本、香港、台湾などでも大人気を誇ったドラマですが、あそこに出てくる女官や貴族たちが、綺麗な衣装を身にまとい、女官たちにもそれぞれ名前があります。

しかし、事実はあの時代の朝鮮も清国の属国でした。ドラマでは色とりどりに描かれているチマ・チョゴリは、実際は清国に白以外は認められていませんでした。

そして、そのチマ・チョゴリは長男を産んだ女性は生涯両の乳を露出して過ごす文化があり、それ以外の女性も、胸部の乳を両班の求めに応じてすぐに露出できるよう、乳は短い上着で覆うだけで、生地で巻く等して隠すことは禁じられていました。


乳出しチマ・チョゴリ

そして、庶民は男性も女性も、名前が名乗ることが出来ませんでした。つまり名前がなかった。

女性は王妃であっても、名前を名乗ることが許されていませんでした。チャングムと言う名前も、後世の字(あざな)に過ぎない。

この時代、朝鮮は極端な鎖国政策をとっていた為、資料がほとんどなく、チャングムについても行状については資料は一切なく、女性であったことが載っている資料は一行だけです。

18世紀以前の朝鮮に関する記述は、オランダ人のヘンドリック・ハメル(Hendrick Hamel)の『朝鮮幽囚記』くらいで、これでほぼすべてです。

彼らは日本に向かう途中、朝鮮半島で船が破砕、ハメルを含む36人が生き残ったのだけど、朝鮮で13年間奴隷の様な生活を強いられます。

残り16名になった時に、ハメルと7名の乗組員は決死の覚悟で船で日本に脱出して、無事オランダに帰国します。そして残った7名も日本が、朝鮮側に引き渡しを要求して、無事オランダに帰ることに成功しています。

オランダに帰ったハメルらが、朝鮮幽閉時の報告書を書き、それが1667年に本になって出版されました。

それによると、結構残酷で、李氏朝鮮時代の女性が夫を殺した場合、肩まで土に埋められ、その傍にノコギリが置かれます。貴族以外の通行人は、彼女の首をその鋸でひいて死にいたらしめなければなりません。

しかし、夫が妻を殺した場合は、理由があれば訴えられることがなかったみたいです。

過失致死を犯したものは、死者を酸っぱい、濁った、臭い水で洗い、その水を罪人の口に流し込めるだけ流し込み、胃の所を棒で叩いて破裂させます。

盗みに対しては、足の裏を叩いてしだいに死に至らしめていました。

一般人は自由に家を建てることが許されず、非常に粗末なもので、総督の許可なしに屋根を瓦でふくことも許されていなかったとのことです。

国民は妻を奴隷と同じ様見なし、ささいなことで妻を負い出し、子どもを引き取らないので、妻が子どもを引き取っていきます。なので、人口が多いとの記述もあります。

また、朝鮮人は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。
「朝鮮人をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼らにとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。」とも言っています。

そして、ハメルより200年ぐらい後にフランスのシャルル・ダレが「朝鮮事情」という本で朝鮮のことを書いています。

それによると、朝鮮には道路と運輸機関が実に不足し、大規模な耕作がないとのことです。また、大部落はなく、田舎では多くても12から13軒づつ固まって散在していて、収穫物が少なく飢饉が頻繁に起こるとの記述があります。

王宮は、パリの年金生活者でも住むのを嫌がるようなつまらない建物であり、王宮は女と宦官で充ちているとのこと。

ソウルも、建築物に見るべきものはない。
ソウルの細い路地は空気も流れることなく、足にかかるものと言えばゴミばかりである。家は低くて狭い。

官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は、当然その費用を取り戻そうと務め、その為には体裁を構おうとさえしない。

上は道知事から最も下級の小役人にいたるまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金をかせぐ。国王の御使すらも、極度の破廉恥さでその特権を濫用している。

朝鮮における学問は、全く民族的なものではない。
読む本といえば支那のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで支那史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は支那のものである。

公開試験〔科挙〕は、最も学識があり最も有能な人に学位免許状が授与されるのではなく、最も多額の金を持った者や最も強力な保護者のいる人びとに対して与えられている。

風俗は甚だしく腐敗しており、その必然的な結果として、女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。

朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。

不思議なことに、軍隊は概して非常に弱い。
彼らは重大な危機があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。

朝鮮人は、金儲けに目がない。
金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。
彼らは、財産を保護し盗難を防ぐ道徳的な法をほとんど知らず、まして遵守しようとはしない。

しかし、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。

朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。
この点に関しては、金持も、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。
多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。
したがって、食事中にはほとんど話をしない。
ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。
そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。
母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。
それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。

家屋は一般的に非常に小さく不便で、真夏になれば、大方の人は外で寝る。
家屋のみすぼらしさは、「貴方はみすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。では貴方の知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を更に落として想像してみてください。するとそれがみすぼらしい朝鮮の住まいについての、殆ど正確な姿となるでしょう。」とも記述しています。

衣服は、白衣ということになっているが、しかし、ちゃんと清潔さを保っているのはとても労力のいることなので、たいていの場合、濃厚な垢のため色変わりしている。
不潔ということは朝鮮人の大きな欠陥で、富裕な者でも、しばしば虫がついて破れたままの服を着用している。

朝鮮人は、科学研究の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術はまったく進歩していない。

交通路はみじめな状態で、山岳や峡谷が多いのに、道路を作る技術はほとんど知られていない。
悪い小径としか見えなくても「これもまた大路ですか」と聞くと、人々はきっぱり「そうです」と答える。
3等道路と呼ばれる道に至っては、広さはせいぜい30センチで、道案内人の聡明さの如何によって見えたり見えなかったりする。
橋は、小川に大きな石を投げ込んで作ったものが一般的である。

1872年から73年に、酷い飢饉が朝鮮を襲った際には、娘を支那人に米一升で売るものもいた。

しかしそんな時でさえ、朝鮮政府は、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。

アジアの北東部から日増しに侵略の歩を進めているロシア人によって、いずれその難関(鎖国)は突破されるだろう。1860年から、彼らの領土は朝鮮と隣接するようになり、これら二国間で、国境問題と通商問題に関してさまざまな難問が起こった。
これらの問題は、今後も間違いなく繰り返されるであろうし、いつの日にか、朝鮮はロシア領に併合されてしまうであろう。

とあります。

他にも、自分の家に店を開いている商人は極僅かで、ほとんどが定期市で行われているということや、通貨についても不完全で金貨や銀貨は存在しておらず、塊にして売ることは禁止されている。唯一の通貨は銅銭であるが、亜鉛か鉛が混じっており、価値は低い。相当量のの支払いの時は、一群の担ぎ人夫が必要となる。百通銭は、1人分の荷物になるからである。北部ではこの通貨すら流通していない。

最近では次々に貨幣が鋳造され、それがだんだんと悪質になっている。



ソウルの独立門。前の二本の柱は迎恩門の名残。

なのでこの独立門は、当たり前ですが設立は日韓併合前であり、日本からの独立の記念ではなく、支那の属国から独立した記念に朝鮮人の手によって建てられた門である。


下にあるのが朝鮮王朝の国旗です。


朝鮮王朝の国旗

少し読みにくいですが、「大清国属」と書いてあります。

国旗にまで書かされているくらい、朝鮮王朝も認めていた属国であった訳です。

それを解放したのは、日本です。

韓国では、ほとんどの人が独立門は「日本からの独立」を記念して建てたものだと思っています。

しかし、前述したように支那からの独立を祝って朝鮮人が建てたものです。

こういった嘘を平気で積み重ねて、世界に発信しているのが韓国です。

日本人に関わる嘘は、その都度直して行かなくてはいけないぐらい嘘が広がっている危機感を持って行かなくてはなりません。

なるべく多くの人に伝えたいので、拡散よろしくお願い致します。