「朝鮮人は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼らをあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼らにとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。」。
1900年代初めは、世界は帝国主義の時代で、朝鮮半島を属国としていた清国の弱体化に伴って、ロシアが虎視眈眈と朝鮮半島への侵出を狙っていました。
朝鮮半島の安定は日本にとっても死活問題で、日本国内も朝鮮を併合し安定化を図ろうとする強硬派と、朝鮮の自主独立を援助する穏健派とに2分されていました。
その肝心の朝鮮は腐敗が渦巻き、朝鮮の支配階級である両班は、労働を忌み嫌い利権に安住しようとすることしか考えておらず、一般民衆は貧しく搾取されるだけの存在で、女性は奴隷同然の存在の国でした。
日本の穏健派の伊藤博文は、韓国統監府(後の朝鮮総督府)の初代統監で、何とか腐敗した朝鮮を立て直し、人民の生活を向上発展させようと、一心に思考、努力していました。
伊藤博文は、朝鮮の自力発展を願い、アメリカのイェール大学教授(哲学、心理学、神学)のジョージ・T・ラッド博士を招き、1907年に朝鮮半島で教育などの啓もう活動を行っています。
ラッド博士は、伊藤博文の朝鮮を発展させようという思いに心打たれ、その様子を事細かに記録しています。
その内容は『1997IN KOREA WITH MARQUIS ITO(伊藤侯爵と共に朝鮮にて)』という本で出版されています。
その中で、ラッド博士は伊藤博文との会話、韓国皇帝・高宗との謁見内容、ハーグ密使事件や高宗退位について内情を記録として残し、混乱した朝鮮事情と東アジアの政治情勢を分析。
当時、朝鮮にいた外国人の問題、そして、一部の日本人への批判も含んでいるが、混乱の原因として王宮周辺とその政治的腐敗を指摘しています。
李氏朝鮮王朝において、両班がいかに国際情勢に無関心で、自分の利権に安住しようとしていたか、民衆がいかに貧しく、搾取されるだけの状況にあったか、とりわけ女性が、まさに性の道具として奴隷以下の扱いを受けていたことなどが、克明に記されています。
また、当時においても、強いものには卑しく媚びへつらい、弱い者の前では人が変わったように居丈高になる朝鮮の人々の様子が活写されています。
そして何より、そうした民族性を目の当たりにしながら、当時、日本の伊藤博文が、穏健にかつ敢然と腐敗した朝鮮を立て直し、人々の民度を向上させるべく、まさに血を吐くような努力をしたいたこともわかります。
伊藤博文は、自ら朝鮮半島で努力をすると同時に、半島人の二枚舌、民度の低さ、平気で人を裏切る性癖、女性をまるで性の道具としてしか認識しない半島の男性たちの行状を明確に把握していました。
ですから伊藤は、自ら真剣に半島の民度をあげるべく努力を重ねるとともに、一方では、そのような半島が日本と合併したときに起きるであろう日本国内の治安の悪化や民度の低下を、明確に認識し、合邦に反対の立場をとっています。
そういった伊藤博文の葛藤も、まさに米国人のラッド博士は、はっきりと掌握し、そのことを本書に認めています。
伊藤博文は、1905年の日露戦争終結後に朝鮮に設置された韓国統監府の初代統監に就任します。
この頃朝鮮の民衆は「一進会」を中心として、、「李朝政府の外交権を日本に委任せよ」と大規模なデモなどが起こっていた頃で、伊藤博文が赴任してきた日には、ソウルの南大門に「歓迎」の巨大な幕が張り出されたりして、喜びと共に迎えられています。
国家の予算すら存在しなかった無政府状態だった朝鮮で、伊藤博文は、統監として赴任した三年間、祖国日本から無利子、無期限の資金3000万円を引き出し、韓国の道路、学校、土木工事、鉄道、病院建設にこれを充当します。
(2年目、3年目も日本が負担して、さらに司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍のお金がかかっています。その大韓帝国が日本から借りた立替金は、1910年に明治天皇から恩賜金として与えられたお金で棒引きされた。)
そして、 伊藤は朝鮮および朝鮮人のために、中央政府の大臣と、地方長官には韓国人を任用し、日本人はその下の補助役に就かせるにとどめます。
そればかりではなく、日本人には荒蕪地の開発などの難しい仕事をやらせたりしています。
これは朝鮮だけでなく、他の国でも日本人は一番厳しい所を請け負うということを多々行っています。
そして、正式な学校が一つもなかった朝鮮に日本の資金で100校以上の学校が作られ、それは合併以降も続き、1943年には5000校を超えます。
また李朝の腐敗した統治にあってインフレーションに悩む民衆のために、朝鮮を『円通貨圏』に統合します。
朝鮮史上、紙幣が流通したのは、実はこれが初めてのことで、これによって物価が安定し、朝鮮に『現代的貨幣制度』が確立するという功績も残します。
そういった功績から大韓帝国皇帝・高宗は伊藤のことを「韓国の慈父」と呼び慕っていました。
しかし、就任から4年後の1909年10月に、ロシアの蔵相と満州朝鮮問題について非公式に話し合う為に訪れたハルビン駅で、朝鮮人のテロリストの安重根によって狙撃され、死亡します。
伊藤博文は、自分を撃ったのが朝鮮人だということを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたと言われています。
日本人を比較的批判する言葉を多く残しているドイツ人の医師・エルヴィン・フォン・ベルツは伊藤の死を知り「韓国人が公(伊藤)を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。(中略)当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。欧州においては韓国保護について新統治の峻厳を批判する者は多い。これらの批評者は日本当局が学校を創設し、農業を改善し、鉄道を敷設し、道路を開設し、船舶や港湾を建造し、かつ日本人移民によって勤勉な農夫、熟練工たる模範を韓国民に示そうという苦心経営の事実をことごとく無視する者である。私は三度現地に赴き、実際の状況を目撃して感服した。(略) 東京で公より話を聞いた時も、公が韓国とその人民の幸福を推進するためにいかに尊敬すべき企画を持ち、いかに多大な功績をあげたかを明白に推知しえた。」と伊藤の業績を評しています。
そして、大韓帝国皇帝・高宗は、伊藤の死を知り、「伊藤を失った事で、東洋の偉人がいなくなった。伊藤は我が国に忠実と正義の精神で尽くしてくれた。自分の骨を長白山に埋める覚悟で、韓国の文明発達に尽くすと言っていた。
日本に政治家はたくさんいるだろう。
しかし伊藤のように国際政治を理解し、東洋の平和を祈った者はいない。
本当に伊藤は韓国の慈父だった。
その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事を理解できない流浪人だろう。」
と述べています。
そして、次の様にも述べています。
「伊藤を失った事は、我が国だけの不幸ではない。
日本だけの不幸ではない。
東洋の不幸である。
その暴徒が韓国人である事は、『恥ずかしさの極限』である。」
この韓国皇帝に「恥ずかしさの極限」と称された安重根ですが、北朝鮮では彼を建国以来一度も評価をしたことがありません。
しかし、今、韓国では彼を英雄として扱っています。
自国の皇帝に「恥ずかしさの極限」と称されたテロリストが、わずか数十年で英雄と称されています。
おそらくこういった矛盾が、今の韓国の歴史観を代表しているのだと思います。
Tweet